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人生の目標:朝シャキッと起きる
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とか繰り広げてみる。
bsn先生の最初の課題の講評で、「何か作品作りの上で悩みとかある?」と聞かれ、「何も考えないで感覚で撮っていることです。」と答えたら、「今回の写真に関しては言う事はない。けど君の作り方に関して僕はちょっと思うところがあるんだけど、それが君の言った悩みと真逆だから、今後の作品を見てから判断するよ。」と言われた。
要するに「計算しすぎているように見える」と言うこと。
ウチがなんでそんなに写真が好きなのかって、
たとえばだけど いつもの教室のとある机の上に1つのペットボトルが置き去りにされてる という状況があったとして、
そんな単純な風景でも、写真の四角の中におさめるだけで急にカッコイイ世界になるし、
そのおさめ方にもきっと100000通りくらいやり方があって、
なんでもない瞬間なのに、写真にしたら綺麗だった。っていうのが1番好きな理由で。
だから 写真作品を撮るためにいちいちライティング用意したりとかそういう嘘くさい、写真のためにわざわざセッティングされたものを撮るのは正直「ペッ」って思ってた。
「きれいに決まってるじゃん」
「そのままの姿から撮る側がファインダーを覗きながら見出してやればいいじゃないか」と。
撮っていて1番すきなのは人間なんだけど、人間なんか特に、普通にいつもの慣れ親しんだ友人達と楽しそうに喋ってる姿、ほんとに嬉しいことがあって笑ってる時の表情、なにかを思いながら空を眺めてる時の目 とか、自然な時がいっちばんキレイだと言い切れる。
ぶっちゃけ、雑誌の表紙の固められた笑顔なんて、ちっとも可愛くねえと思ってる。
その人の顔面の造形(美人か否か)という意味で「○○可愛い〜」とは言うけど、もっと可愛い女の子達の瞬間を私は知ってる と言ってもいいくらい。
だから勝手に、「私の撮りたいと思ってるものにこんな緻密な作業は関係ない」と初回では思っていて。
でも毎週ライティングの授業を受けるうちに、光の表情によって変わる被写体の可能性の広さに愕然とした。
私は1つしか追えてなかった。
小さい考えだと思っていた私こそが小さかった。
だからこそそれを克服する意味で、最初の課題は私なりに照明をいじることを優先した。
うっかりカメラ持ってうろうろしてしまう自分を叱咤して、積極的に光をいじった。
それで↑の講評である。
「無理して計算してやった」んだから、「計算してるのが気になる」と言われるのは、ある意味成功していると思う。
だけどそれで色々考えたあと、
「私は普段の作品も充分計算していないか?」と不安になった。
「これを右下に入れる構図にしたら格好良いな」とか、それだって計算じゃないか?
じゃあ私の写真は計算にまみれているのか
思うままに感じたままに撮るってことにまで行き着けてないのか
次の課題で「計算じゃない私」を見せれるのか
怖い
写真が好きだから講評が1番こわい。
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